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連散手

愛知県の教室「宇童会」は、実に女性が8~9割を占める。しかも、度々記述しているが、元々が武術どころか太極拳にすら縁遠い方がほとんどだったのだ。

なので用法的な練習については、満四年を過ぎるまで連散手はおろか、たまに技の意味として用法を紹介するか、ちょっと体験してみるという程度であった。

およそテレビなどでの太極拳のイメージしか知らない人にとっては、太極拳に対人稽古というものがあることに戸惑いを覚える方も多く、推手ですら亀の歩みの如くであった。段階を細かく分けてそれぞれの目的や意味を教えつつ、簡単な攻防の意味なども少しずつ交えながら、じっくりじっくりと、しかしあくまでも武術、もしくは武術に繋がるものとしての気持ちは忘れずに練ってきたのだった。

本当に、初めたばかりの頃は、まずは相手と向かい合う緊張感をなくしていく、そんなようなことから慣らしていく感じだったと思う。

それがようやく、ここにきて連散手を本格的に始められるようになってきた。特筆すべきは攻撃側を習っても、愉しめる余裕が出てきたことだろう。

また、今まで練ってきた太極拳が、連散手を学ぶことによって、急に活き活きとしたものに思えてきたようだ。これまでに説明してきた細かい注意点の意味に、あらためて一つ一つ納得するように、套路の雰囲気が変わっていく。技を知ることによって、根節、中節、梢節の意識が変わり、全体の流れもよりイメージし易くなるのだろう。
站椿の意味、推手の意味、それらが急に実感として感じられる瞬間だ。

もちろん、ここに至るには様々な工夫もしてきた。

それによって明鏡拳舎のルールとして定着したことの一つが、連散手・攻撃側は、あくまで「先生」役という位置づけを明確にしたことだ。

先生役である攻撃側は、生徒が攻撃に対して太極拳を正しく使えるよう導くために、正確にゆっくりと攻撃を行わなければならない。

ゆっくりというと、そんな攻撃を受けても意味がないと思うかもしれないが、ゆっくりでもまずは「太極拳を使ってみる」「太極拳で攻撃を捌く」という経験をしてみなければ、始まらない。

仮に、相手の速い突きを太極拳の動作の形で受けられたとしても、そこに太極拳ならではの勁や感覚や意識がこもっていなければ意味がないのである。それが沾粘連随の「沾」だ。

一方で攻撃側はいわゆる、少林拳や現代格闘技のように突き蹴りが主体の攻撃を行う。

これも自分の場合はついでに形意拳等の理合いも少々加味しつつ、極力、単独で行える型に落とし込んで動きを練習した後に、ようやく連散手として組み合わせるというやり方にしている。

ある意味、皆にとってはこうしたキビキビした動きもたまには新鮮に感じるようだ。もちろん、そのように感じられるような下地は作ってきたつもりだ。そういう真っさらな気持ちで見ることが出来れば、攻撃側は乱暴なものでも、単なるやられ役でもなく、そこには実にたくさんの優れた技法や学びがある。

ところで、何故、攻撃側が先生役になるのかというと、そこにはもう一つ大事な意味がある。それは、あくまで根底には太極拳がなければならない、という事だ。

いわば最も太極拳の外形から外れたところで太極拳を行わなければならない。そして客観的な視点から太極拳を味わうということ。三層の功夫で言えば、明でなく暗。厳密に言えば暗への足掛かりとするものであり、それを学ぶのが攻撃側の目的でもあると言えるだろう。

そうした陰陽の関係によって、単に用法の詰め合わせ的なものだけでなく、システマチックに様々なことを学んでいけるのが連散手の素晴らしいところだ。そして、こうしたものを通して学んでいくのも三拳弊習の我が門の太極拳なのだ。

「我が門の武術は、我が門の練習によって成り立つ。」また、「我が門の武術に必要なのは真摯に学ぶ気持ちだけである。」何度でも繰り返し心に刻みたい言葉である。

我が門の武術は、強い人には教えるが、弱い人にはやっても意味がないので教えない、というものではない。

強い弱いに拘らず、今、出来ることをする。そこに、共に良い学びが得られるものこそ武術だと思っている。

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太極拳雑感(2)我が門の太極拳と、太極図

ザックリ紹介すると、我が門の太極拳を構成するのは以下の4つである。

套路、連散手、推手、站椿(※本来、椿の字は日でなくて臼)

套路については、説明の必要もないだろうということで省くが、残りについて簡単に紹介するならば、以前、「99勢 双辺太極拳」の回にも書いたが、双辺太極拳では二人一組で行う対人型の稽古法の一つに、99勢の型がそのまま順番通りに技の用法が繋がっていく「連散手」というものが存在する。
しかも、それは単に99に納まらず一つの技の名前の中に3手くらい含んでいるのもあれば、同じ動作については毎回使い方が異なり、一つの技の深みが増していくようになっていたりもするのだ。

推手については、名称は一部、明鏡拳舎式の呼び方になるが単推手、双推手4種(内圏・外圏・右双圏・左双圏)、四正推手、陰陽推手…等々、多くの推手が存在するのが特徴だ。

站椿は幾つかの種類があり、段階や状態によってそれぞれ細かな意識や目的を持つように求められる。

と、このような感じであるが、この4つの要素と言うのは、それぞれが極まっていながらお互いの関係性は密接に繋がっている。それを繰り返し実感するうちに、いつしか自分は、色んな角度から我が門の太極拳を太極図に当てはめて考えるようになった。一番分かり易い例で言えば、

陽=套路
陰=連散手
陰中の陽=站椿
陽中の陰=推手

と、このような感じである。

站椿と推手の二つはエッセンスと言えるものであり、そのような考え方で組み合わせを眺めていると、それぞれの関係性の中にいろんな発想が浮かんでくる。

もちろん、考え方としてはその時に何を練習しているかによって、組み合わせが入れ替わるのもありだろう。
例えば推手を行っているならば、陽に推手が当てはまるというように、メインの練習の中にも必ず他の3つの要素が存在している。推手と言っても、それをうまく成り立たせるには必ずしも聴勁だけが問題になるのではない。姿勢など構造的な問題なのか(=站椿)、手順の理解や流れの問題なのか(=套路)、相手との距離やタイミング(=連散手)の問題なのか。太極図で考えると、問題点がチェック出来るだけでなく、優先順位やちょっとした段階練習の発想のヒントなども浮かんでくるのである。

このように、連散手の存在によって我が門の太極拳は練習体系もまた、そのまま太極図に則ったかのような形でバランスよく学んでいけるように工夫されているのを、あらためて感じるわけである。

…と、いうようなことを思考の遊びのような感じでつらつらと考えていたりするので、タイトルは「我が門の太極拳」とかではなく、あくまで「太極拳雑感」なのである。

ちなみに余談であるが、自分がいろいろと書いてきたものを読んでうすうす感じていらっしゃるかもしれないが、我が門には呼吸法や気功などと言うものはほとんど出てこない。(笑)
なぜなら人間は呼吸しなければ生きられないわけで、自然呼吸をしているという事が即ち太極拳と一体となっている事である。つまり、太極拳自体が呼吸法であり気功的な要素を含んでいるのだから、分ける必要もなければ、ことさらに強調する必要もない。必要なのはむしろ、太極拳に対する理解の深さだ。

いずれその辺の事についても書こうとは思っていたのだが、切り口にはやや悩むところである。

太極拳雑感(1)なぜ武術として教えるか?

明鏡拳舎では、なぜあくまで武術として太極拳を教えるのか?

例えば、一般の格闘技ではパンチは踵を浮かせて思いっきり蹴りだすようにしながら腰の回転で打つのに対して「太極拳ではなぜ踵をつけたままで打つのか?」というような素朴な疑問。

そんな素朴な疑問には、そうすることによってどういう威力が生まれるかということを、寸勁などを食らってもらって実際に体感してもらうのが手っ取り早い。
と、このように書くと乱暴な話のようだが、実際には、相手に合わせて身体は吹っ飛んでも痛みは与えないよう、威力や効果をコントロールするのだからかなり繊細な話だ。

体感してもらうのは、あくまで理解のため・学びのためであるし、勁力を使って打った打撃はどんなに軽いものであろうと相手が納得するだけの現象が起こる。そこには何のごまかしもないし、ほとんどの人は体感した後に笑顔になるか、不思議そうな表情になるかのどちらかだ。

踵を浮かさず、なおかつ、足裏で蹴らない意味、打撃の性質の違い等々、たった一つを実感するだけでむしろ沢山の事を学べるのだから、百の説明をする必要もないのである。と言うよりも、踵をつけたまま打つような要求は、一般的なスポーツ等の認識とは違うのだから、教わる側にとって必要なのは、まず、説明よりも証明だろう。

かと言って、出来ることをひけらかすのでもなく、示威行為でもなく。
我々の太極拳はそういうものだからこそ淡々とそのように教えるというだけで、しかし、そういうものだからこそ愉しいのだ。

愉しいからこそ、笑顔もあれば、学びの真剣さも増す。

少林寺拳法の開祖である宗道臣先生は、嵩山少林寺の白衣殿にある壁画に、中国人の僧と、印度人の僧が二人一組になって楽しそうに技をかけあう姿が描かれているのを見て大いに悟るところがあったという。

ところで、二人一組と言えば、我が門の太極拳には一人で套路を練るだけではなく、二人(時に二人以上)で行う多種多様な推手もあれば、99勢全ての用法を繋げた連散手というものが存在する。

それによって、我が門の太極拳がどういうものかより見えてくるわけだが、そんなわけで、次回のタイトルは

太極拳雑感(2)
「我が門の太極拳と、太極図」

ということで、再びマニアックな話になる。(笑)

99勢 双辺太極拳

三拳弊習や三拳融合について書いてきたが、やはりその最も象徴であり、礎となるのが双辺太極拳であろう。
特に師祖父が体系的にまとめたバリエーション豊富な推手と、99勢全てが順番通りに連続した攻防になって用法が学ぶことが出来る連散手の存在は、我が門の宝だと言っても良い。一体どれだけの発想がこの中に込められているか。自分が習っている時も、一手一手の説明に目から鱗が落ちる思いであった。
例えば套路の中に単鞭は何度も出てくるわけだが、同じ使い方は一つとしてなく毎回用法が変わる。たった一つの動作の中にこんなにも色んな技の意味をもたせることが出来るということに感心するよりなかった。

太極拳には源流の陳式をはじめとして、楊式、呉式、その他色々あって、それらが五大流派とも六大流派とも言われている中、やはり自分が一番太極拳らしくて好きだと感じるのは、師父から習ったこの双辺太極拳だ。六大流派にも含まれないけれどその六大流派の様々なエッセンスを含み、八卦掌の螺旋や形意拳のエッセンスもまた見事に取り込んでいながら、それでも太極拳らしいと感じるのは、やはり太極拳というものを色んな意味で、とことん理解していたからであろうと思う。

なにより、師祖父によってさらに八卦掌の要素が色濃く入った太極拳は本当に美しいと思う。先程の「太極拳らしい」というのとは矛盾するようだが、自分にとってはどちらも真実だ。

また、形意拳の要素が入っている部分というと、普通は肘底看捶などをパッと思い浮かべると思うが、我が門の99勢にはさりげない動作の中にも形意拳の理合が込められている。そしてそれはいわゆる護身の意味において、力がなく、また相手を傷つけるのが出来ないような心の持ち主が、咄嗟の緊急事態にいかに身を守るか?という難問に、師祖父が導き出した答えが込められているように自分には思えるのだ。よく護身術とは言うが、それで相手を攻撃出来る心の強さを持っているものは良い。しかし、本当に護身が必要なのはそうではない人達ではなかろうか?

やや話が逸れてしまったが、そういった師祖父の人生哲学的なものがいろんなところに垣間見えるのも、この太極拳の魅力だ。

教えているとつくづく感じるが、99勢は長い。しかし長いからこそ良いのだと思う。教え始めて4年が過ぎ、ようやく99勢まで辿り着いたものがポツポツと現れ始めた。そして11月に丸5年が過ぎる頃には、おそらく10人を超えるだろう。
ほとんどがおよそ武術には縁遠かった方々で、教室は多くて月に2回のペース。しかも太極拳の知識も全くなく集まった方ばかりだった。それでも一歩一歩、積み重ねてきた。そして太極拳とともに、学ぶと言うこと自体を好きになってくれた。
自分もまたこの太極拳だからこそ自信を持って教えることが出来た。

そして、教えることを通して、ますますこの双辺太極拳が好きになった。

プロフィール

Author:宇野 道夫
「内功武術 明鏡拳舎」を主宰。
陳[シ半]嶺(Chen Pan Ling)の流れをくむ
太極拳・形意拳・八卦掌
の三拳を修めている。
縁あって愛知県の江南市。神奈川県の相模原市で後継者の育成にあたっている。

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