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「陰陽」 ~共通性と違いという視点から~


我が門では太極拳、八卦掌、形意拳の三拳を弊習する学習システムであるがに故に、様々な形での陰陽の関係に気づくことが出来たことはこれまでにも触れてきたが、最近、それは三拳に留まらず、自分がこれまでに学んできた日本の武術と中国の武術ということにおいても大きな意味でやはり陰陽の関係に捉えることが出来る事を、おぼろげながらもあちらこちらに感じられるようになってきた。
また、見識を広める過程で様々に触れさせていただいた武術においても、同様に、様々な陰陽の関係を見る思いがするのである。

それは共通性という話でもなければ、単なる違いといった話でもない。まさに陰陽と言うべき関係性なのだが、それを見出すことでより理解が深まるように思うのだ。というより、そもそもがそうした発想によって深めていこうというのが、我々の練っているものなのかもしれない。

なによりまず、自分が様々な武術を通じてもっとも関心があるのは「共通性」よりも「違い」、つまりそれぞれの武術の特徴である。もちろん、ただ小手先の技術の違い等の話なら幾つ挙げても意味がない。どのような特徴でどのように技術が体系付けられているのか。それこそが自分の言う「違い」の部分だ。逆に言えば、その体系を一旦理解したならば、小手先の違いと思えた技術もまた必然的な理由として見えてくる。

例えば、同じ形意拳でも、ある先生のところで交流させていただいたときには、根本に置く原理原則の違いから、全く別の技術体系になっていることを再認識した。その原理原則の違いとは正しいとか間違っているとかではなく、どちらを選択するかというまさに枝分かれ的な内容のものである。事実、自分の門派とは違ったやり方で、それを活かすための素晴らしい技術や、様々な工夫が散りばめられた体系が構築されているのをみると、一度、自分の原理原則をそちらに切り替えて、ドミノ倒しの如く全てをひっくり返してみたい衝動に駆られてしまいさえする。ましてやその先生が、現代における達人先生の一人と、誰もが認める存在とあってはなおさらだ。

そうした確かな技術体系と功夫の前に自分自身が晒された時、どちらが正しい形意拳とかそういった視点はもはや無意味であり、その違いの中に何を、如何に、学ぶかだ。むしろ虚実分明と言おうか、違いや特徴が明確になることは、即ち、学びや気づきでもあり、それが単なる違いから陰陽の関係に落とし込めた時、より納得した上で繋がりを感じることができるように思うのだ。

そこに至るためには、自分の形意拳を突き詰めていればこそであるし、それが出来たのならば、自分の中でそれを併せ持った姿が、つまり、何をもって形意拳かというビジョンもまた、自然と自分の中で鮮明になっていく。

もう一つ例を挙げると、最近でもあったことだが、日本の雑誌等においては、八卦掌は大東流や合氣系の武術と似てる似た感じの武術と紹介されることが多いように思うのだが、自分は全くそうは思わない。

もっとも八卦掌自体が、開祖である董海川の弟子からして異なる風格や内容の八卦掌にそれぞれ分かれているくらいなので、他門派においてはそのように感じるものであったとしても不思議ではないことも理解している。特に程廷華はシュワイジャオを修めていたこともあり、そうした成り立ちからしても柔術系や合氣系の武道と結びつきやすいだろうし、また、実際にそのように技術体系を構築しているところもあるのではないかと思われる。それは、先に述べたように尹福が羅漢拳を、程廷華がシュワイジャオをベースに、それぞれの八卦掌を構築して行ったことを考えると、少しもおかしなことではない。

一方で、自身の八卦掌はそういった様々な八卦掌ともまた違った追求の仕方をしていることは自覚しているので、余計に全くの別物に思えるのだろう。

しかし、自分にとっては、大東流や合氣系の武術と似てると感じない八卦掌だから良いのだ。

少なくとも自分の中で八卦掌という武術についてハッキリとその像を描くことが出来るし、迷いなく追求することも出来る。

違うからこそ追求し甲斐があるし、そこに陰陽を感じ取れればこそ、繋がりもまた感じる事が出来るのだ。
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最近の気づきと、守破離

しばらく前から形意拳の技のかかりが変わってきているのを感じていたが、最近になって、これもまた八卦掌と太極拳が形意拳の中で陰陽のように融合した一つの現れ方・成果なのだということに気づいた。
それも枝葉の話ではなく、起鑚落劈という形意拳の根の部分での話で、しかも、八卦掌と太極拳の特徴もまた存分に活かされているのが面白い。技の可能性も広がっていくだろうし、その観点でもう一度五行拳から見直すのも良い。また一段、五行拳も深まって戦略の幅も増えそうだ。

しこうして、その気づきとは、捻りの方向とその変化がもたらす現象についての話なので、それだけを取り出してみれば決して特別なものではない。
しかし、捻りが何にどう繋がって、どのような展開を見せるのか。それが技術体系だ。ただ「捻り」と言っても、太極拳、八卦掌、形意拳で、その意味も目的も異なれば、質も異なる。
が、異なるからこそ、それが上手く組み合わさった時には意外な効果をもたらすものだ。

以前、三拳弊習について書いたときには、形意拳の中にこんな太極拳と八卦掌の融合があるとは気づいていなかった。これだから三拳弊習は面白い。不思議なもので、三拳の特徴を際立たせるべく分けようとすればする程、その先でますます密接に結びついていく感覚がある。

きっと何年後かには…いや、三拳弊習についてはこれからも何度となく、その段階での三拳を語る事になるだろう。

もっとも、このように書くとある人はこう思うかもしれない。「このブログを書いている人物は自分の考えを書いているだけで、三拳について深く習ってはいないのか?」と。

そうではない。

深く教えていただいたからこそ、次々と色んな事をテーマに掘り下げてみようという発想が浮かんでくるし、自分が出来るようになって、初めて見えてくるものもある。何より、こうした気づきや発想と練習の繰り返しによって自身の理解と技を深めていくことこそは、そもそもの武術の醍醐味ではなかろうか。

日本の伝統芸能には守破離(しゅはり)の考え方がある。

守破離は元は
「守り尽くして、破るとも、離るるとも『本』ぞ忘るな」
の守破離をとった言葉だそうだ。

守り尽くしてとは、自分で言うのもなんだが、我ながらまさにその通りだと思う。師父から教わった事を大事に守り通し、実践してきた。だから、今があるのだ。

だが、そこから先の破と離については、ネットで改めて解説を読んでいると、どうにもしっくり来る説明が見つからない。

破は、他流も研究するとか、セオリーから外れてみると説明しているものもあれば、離は、型から自由になり、型から離れて自在になることができる、というような内容である。

だが、それでは何のための型であろうか?と思ってしまうのである。型はその流派の理合いであり、そこから外れてしまったら、破ではなく単なる技の破綻だ。

どんなにセオリーから外れようとしても、人間の身体の構造は変わらないし、あらゆる物理法則から解放される事はない。その中で動かなければならないし、それを使いこなす為の理合いこそが型のはずである。

では、自分にとってしっくりくる守破離とはなんだろうと思い考えてみると、浮かんできたのは「三層の功夫」だ。

明、暗、化。この3つの段階の考え方こそ守破離に当てはまるのではないだろうか。

【守ー明】
・明らかに目に見える形で、一つ一つしっかりと教えを守っていく段階である。それによって理合いを学んでいく。

【破ー暗】
・理合を一通り学んだ上で、自身と向き合い、個人差による微妙なズレを擦り合わせていく時期であり、様々な気づきや工夫を成功・失敗を通して試行錯誤する時期とも言える。それは一見、形が崩れているように映ったり、勝手な事をやっているようにも映るが、自身と型の統合や、技の発展があるのがこの時期と言えるだろう。
型から外れているように見えても、あくまでその人が見つめているのは基本であり、型なのである。

その一方で、実際に使ってみようとして上手くいかない経験を多く積むのもこの頃だろう。しかしその原因というと、ほとんどは力に頼ってしまったり、普段練習していることと違う事をやってしまったという感じではなかろうか。上手くいかないからといって型を捨てるのではなく、他に求めるのでもなく、まず破るべきは、自分の中にあるあらゆる固定概念である。

【離ー化】
・どんなに自由に振舞っても、型(理合)から外れる事がないくらいに、経験の積み重ねによって、型が身体にも脳にも染み込んだ状態である。また、理合いが身体に染み込んでいるからこそ、自在にも動けるわけだ。
また、そこまでに至る自身の様々な工夫や経験を伝えようと思えば、必ずや基本の中にその考えもまた反映されていくだろう。なぜこの基本が大切なのか、基本で何を学ぶべきなのか、と。もちろん、それは套路にも言える。

こうして書いてみると、あらためて感じるのは、

自分が教える太極拳とは、
師父が教えてくれた太極拳でありながら、
師父の太極拳ではなく自分の太極拳であり、
ではその自分の太極拳はと言えば、
自分の太極拳などというものはなく、
ただ「太極拳」なのである。

ということだ。八卦掌や形意拳も然り。
守破離の元になっている言葉にある最後の言葉。「『本』ぞ忘るな」とはそういう事でないかと、自分なりに考える次第である。

ある日の練習の後に

心から「この門の武術で良かった」と思う瞬間がある。昨日の拝師弟子練習はまさにそのような時間であった。

拝師弟子練習は、基本的にマンツーマンで教わる事がほとんどだ。それを師父と何年にも渡って続けてきた。

今では、話の内容も、練習の内容も、毎度の事ながら本当に濃密で味わい深いものだが、不思議と教わることに「尽きる」ということがない。

三拳弊習だから覚える事も多いということもあるが、だからと言って、ただ単に3つの拳法の套路をどんどん覚えていく、というのともおよそ訳が違う。
進んで行くにしたがって三拳が密接に繋がりあい、スパイラルに高さと深みが増していく感じなのだ。

しかし、今回の感動とも感謝ともつかぬ気持ちが湧き上がるのは、そういった技術的な話によってではない。もっと根本的なこの門の武術についての話だ。

套路の中に感じる師祖父の人生哲学のようなものについては、以前にも話題にした事があるが、今回の学びによって、武術がこんなにも昇華された形でなお、武術として受け継がれてきていることに深い感銘を受けたというところであろう。そう、これこそが師祖父の武術だったのだ!

だからこそ、ここまで誇りを持って迷わずに教えることが出来た。そしてこれからは、師祖父と師父に連なる自分の武術を、より決意と心を込めて伝えていかなければならない。

今日の内容を、いつの日か、自分の後に続く者に。

そんな想いが心の中に渦巻くような、感慨深い一日であった。

純度と雑味

わずか5年の間でも、基本を繰り返し・繰り返し教え続けていると、まず誰よりも先に自分自身にかなりの気付きがあるものだ。生徒に教えるということは、師父から習ったことを何度も思い起こしながら、どうしたら生徒にその意味と大切さを伝えることが出来るかと、いろんな角度から基本に対する思索を深めてきたようなものであるから、当然と言えば当然かもしれない。結局は、生徒を成長させるのも、自分自身を成長させるのも同じという事だ。

自分自身の理解が深まってくると、自然と教え方も変わってくるし、動きを導くために使う言葉まで変わってくる。一方で「上下相随」「虚実分明」「空胸緊背」等の常に繰り返し引用する言葉は、ますますその意味が深まってきた。それらによって生徒たちの技が一段と変わってきた手ごたえがあり、技や基本も、ある意味シンプルでより明確なものになってきた。
何もかも良い感じになってきた…と思っていたのだが、なかなかそう一筋縄ではいかないものである。

最近も弟子に言われてハッとなったことがあった。それは、自分が初期の頃に教えた、今の自分から見れば雑味が入りまくったある練習法を弟子が新しい生徒に教えていたのだが、わざわざそれを教えたわけを尋ねてみると、弟子にとってみればそのやり方が入り口として「分かり易くて、良かった」と言う。

例えるなら「水清ければ魚棲まず」と言ったところであろうか。
弟子のとった行動は、自分にも覚えがある。

いや、むしろ自分自身がその行動をよくとっていたし、それらの内容を誰よりも大切にしていたと思う。

我が門においては「工夫に力を入れれば(工力+夫)=功夫になる」という師祖父のウィットに富んだ言葉が残されているように、確かにその練習法は八卦掌など名前も聞いたことのないような生徒に、どのように八卦掌を教えていくか?ということを試行錯誤をしながら工夫した練習法ではあった。

それが今は八卦掌がどういう拳法であるかというイメージも皆の中に浸透して、本来あるべき練習法で進められるように教室の雰囲気が整ってからは、その言わば方便のような練習法は自然と消えていったのであるが、習い始めて間もない人には、ある意味、武術の性質から言って純度が高すぎると分かり辛く、逆に雑味が入っているほうが目指したいところが逆に目立つという良さがある、と言ったところだろう。

思い起こせば、今の宇童会を教え始めた時に、なにより役に立ったと感じるのはその雑味の部分であった。それを知っているか知っていないかは、師父の初期からの生徒と後から入った生徒との大きな違いであるとも思っていた。

それがいざ、自分のこととなるとつい純度を高める方に目が行きがちで、意外とそういうところは見おとしがちになってしまうものだ。しかも、なまじ純度が高くなることで成果があがっている分、教える側として未熟だった頃の自分が考えたものなど、つい「もう必要ない」とさえ思ってしまう。

しかし、そういうわけでもないというのは、その時期だからこそ感じ取れるものがあり、その時期ならでは発想出来ることもあるということだろう。

純度と雑味。

その絶妙なバランスを愉しめるようになりたいものである。
プロフィール

Author:宇野 道夫
「内功武術 明鏡拳舎」を主宰。
陳[シ半]嶺(Chen Pan Ling)の流れをくむ
太極拳・形意拳・八卦掌
の三拳を修めている。
縁あって愛知県の江南市。神奈川県の相模原市で後継者の育成にあたっている。

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