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形意拳雑感

最近、形意拳が面白い。自分にとって「温故知新」とは、まさに形意拳のことだ。

拳を練りながら身体で感じる拳理やその中に含まれる哲学は、まるで悠久の大地と歴史そのものを映し出す鏡のように、全てをぎゅっと凝縮して構築されたかのような世界観を持っている。

動物から人への進化。そして人は道具や武器を持つようになり、龍や麒麟のような想像上の生き物をも生み出すような創造性をも得てきたのである。このことは、例えば十二形を挙げると、動物を姿を模倣したり獣性を求めたりすることは「あえて退行することで原始の力を得ようとする」ものにも思えるが、先の視点から見れば、形意拳そのものが「進化をテーマにした拳法」だと捉える事もできるであろう。

事実、我が門では師祖父から代々、形意拳はあくまでも「人」の拳法だと、また「そうでなければならない」と学んできた。

そもそも三才式(三体式)は天・地・人を表す。
そして五行拳は、姿は武器を持った人類、そこに含まれる五行の内容・思想は人の知恵そのものだ。

起鑚落劈のリズムで進退を刻みながら「金水木火土」の五行を展開し、十二の動物の理を身で読み解きがら、天地の間に立って伸び伸びと拳を打つ。「人」と「原初の根源的な力」が同居するようなこの味わいは、形意拳ならではの愉しさだろう。

太極拳の全てを包括するような「陰陽」の妙とも、八卦掌のまさにDNAを思わせる究極的な「螺旋」の展開とも、また違った味わいである。

我が門の武術は、一度は三拳融合を試みられたわけだが、この全く異なった甲乙つけがたいそれぞれの味わいが無くなってしまうのは非常にもったいない話なわけで、折に触れるたび、この結論に辿り着いてくださったことをありがたく思う次第である。

ところで、もう少し身近な話題としては、形意拳と言うと日本では時折「シンプルな拳法」だとか「単純だが繰り返し練ることで絶大な威力を得ることが出来る」というような紹介をされているのを見かける。

が、自分から言わせれば形意拳とは精緻かつ精妙な拳法であり、その姿はまるで荘厳な建築物を思わせるようで、拳理も含めて極めて職人技的な拳法だという印象がある。

紹介者にシンプルと言わしめるその代表的な技が「崩拳」だろうが、自分が学んだ崩拳はかなり具体的で細かな技術や要求があり、とてもではないがシンプルとか単純とか言える様なものではない。いわゆる「真っ直ぐ突いているように見えるパンチ」の中では、かなり技巧的な部類に入るのではなかろうか。

また、あるところでは、初心者が最初に劈拳を習うと「こんな打ち方で本当に威力が出るんだろうか?と思ってしまう」というような内容にも出会う。

形意拳で最初に習うであろう劈拳は、実に特殊と言えば特殊な動きである。
なぜ初心者には敷居が高く感じるこの動作がスタンダードに据えられているのか。

しかし、ここで考えて欲しい事は、一つには「わざわざ威力が出ない形を要求するであろうか?」ということ。
そしてもう一つには、「もし、その疑問に思う形をひたすら繰り返せば、本当に威力が出るようになるのか?」ということである。

結論から言えば、その形で威力が出せるのも、いつまでたっても威力が出ないのも、劈拳の中に含まれた幾つかの理合いを、しっかりと履行出来ているかどうかに他ならない。それを習って理解するか、自分で気付きを得るかしない限りは、そこへたどり着くことが出来ないのは当然と言えば当然である。

その上で、あらためて「伝授」とはどういうことか?

師が手本を示し、実際にそれを体感しつつ理を学び、自分自身の気づきも重ねながら、やがてそれを自分のものとする。
そしてその自分もまた、後から続く者に手本を示し、実際にそれを体感させ、理を教え、気付きを得させながら自分がそうしてもらったように確実に体現出来るようになったという事をもって、それが伝えていくということだ。

そうした歴史の流れの中で、自分に、今、確実に言えること。

それが冒頭の

「最近、形意拳が面白い。自分にとって「温故知新」とは、まさに形意拳のことだ。」

なのである。
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五行奇門対打

久々に五行奇門対打をじっくりと練る。
「五行奇門対打」とは、我が門に存在する形意拳の対練法で、その中で得られる感覚は、いかにも我が門の形意拳ならではの味わいだ。

太極拳や八卦掌が混じるわけではないが、しかし、その功夫なしには完成は遠くなる。
そして、それは同時に我が門の太極拳や八卦掌でなければならない。

そんな独立独歩の風格も、武人としての師祖父の姿を思わせる。

ところで、ある人は言うかもしれない。「いつもいつも、それ程に独自の風格を強調するならば、それぞれ太極拳、形意拳、八卦掌の名前を名乗らずに、新しい名称を考えれば良いのでは?」と。

だが、我々にとってはそれぞれが、太極拳、形意拳、八卦掌そのものなのだ。
形や内容を極力変えずに受け継がれてきたものもあれば、伝承の中でそれぞれ研鑽が積み重ねられてきた結果、今に残るものもある。
技や内容の良し悪しは各々が判断してくれればよい。

また、周りを見回したところで大同小異を持ってわざわざ名称を変えるところは少ないであろうし、そもそもそれが出来るくらいなら、何々派、何々式といった様々な流派が生まれることもなかったであろう。

翻って、本題に戻るならば、形意拳の対練套路というとまず浮かぶのは相生克拳や、安心(身)炮といったところか。だが、我が門で行う対打は、もちろん幾つかの段階練習はあるものの、対練套路としては五行奇門対打だけだし、套路にしても師祖父が雑式錘を練功套路から外したように、例えば、形意拳の中級套路とも言われる十二肱錘もまた、我が門の理合に照らし合わせると、練功套路から外すか、一部短くしても良いかと考えたりもする。

足していく事は工夫や努力の結果として分かり易く周りにも認められ易いが、その反面、削ぎ落としていく事は、それを編み出し大切に受け継いできた先師達の努力を踏みにじる行為に等しいとも言えるし、以前は自分自身も「何故、他所の形意拳で当たり前の様に行っている相生克拳や安心(身)炮をやらないのか?」という不安があった。

しかし、今はネットの動画などでそれらがどういうものかを見る事も出来るし、何より、実際に五行奇門対打や我が門の武術を深く理解した後には「なる程、確かに我々の形意拳に必要なものは、師祖父の五行奇門対打なのだ」という事が良くわかる。

前回、違う話で書いたように「あれも良い、これも良い」と付け足していく事は簡単だが、本当に難しい事は「切り捨てる」ということだ。自分たちにとって必要なものを見極め、取捨選択していくということだ。

だからこそ、これ程素晴らしい武術を我々に授けてくれた師祖父が、熟慮した上でそれをやらなくても良いと判断してくれたということは、後から続く我々にとって非常に安心感を与えてくれるし、自ら判断し決断していく事を教えてくれる。

そして、その事を通して師祖父自らが、自分たちが進むべき道を示してくださっているように思えるのだ。

五行奇門対打の中に入っている「奇門」の文字。その技の妙ももちろんだが、その名称もまた、味わい深い。
プロフィール

Author:宇野 道夫
「内功武術 明鏡拳舎」を主宰。
陳[シ半]嶺(Chen Pan Ling)の流れをくむ
太極拳・形意拳・八卦掌
の三拳を修めている。
縁あって愛知県の江南市。神奈川県の相模原市で後継者の育成にあたっている。

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