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太極拳雑感(2)我が門の太極拳と、太極図

ザックリ紹介すると、我が門の太極拳を構成するのは以下の4つである。

套路、連散手、推手、站椿(※本来、椿の字は日でなくて臼)

套路については、説明の必要もないだろうということで省くが、残りについて簡単に紹介するならば、以前、「99勢 双辺太極拳」の回にも書いたが、双辺太極拳では二人一組で行う対人型の稽古法の一つに、99勢の型がそのまま順番通りに技の用法が繋がっていく「連散手」というものが存在する。
しかも、それは単に99に納まらず一つの技の名前の中に3手くらい含んでいるのもあれば、同じ動作については毎回使い方が異なり、一つの技の深みが増していくようになっていたりもするのだ。

推手については、名称は一部、明鏡拳舎式の呼び方になるが単推手、双推手4種(内圏・外圏・右双圏・左双圏)、四正推手、陰陽推手…等々、多くの推手が存在するのが特徴だ。

站椿は幾つかの種類があり、段階や状態によってそれぞれ細かな意識や目的を持つように求められる。

と、このような感じであるが、この4つの要素と言うのは、それぞれが極まっていながらお互いの関係性は密接に繋がっている。それを繰り返し実感するうちに、いつしか自分は、色んな角度から我が門の太極拳を太極図に当てはめて考えるようになった。一番分かり易い例で言えば、

陽=套路
陰=連散手
陰中の陽=站椿
陽中の陰=推手

と、このような感じである。

站椿と推手の二つはエッセンスと言えるものであり、そのような考え方で組み合わせを眺めていると、それぞれの関係性の中にいろんな発想が浮かんでくる。

もちろん、考え方としてはその時に何を練習しているかによって、組み合わせが入れ替わるのもありだろう。
例えば推手を行っているならば、陽に推手が当てはまるというように、メインの練習の中にも必ず他の3つの要素が存在している。推手と言っても、それをうまく成り立たせるには必ずしも聴勁だけが問題になるのではない。姿勢など構造的な問題なのか(=站椿)、手順の理解や流れの問題なのか(=套路)、相手との距離やタイミング(=連散手)の問題なのか。太極図で考えると、問題点がチェック出来るだけでなく、優先順位やちょっとした段階練習の発想のヒントなども浮かんでくるのである。

このように、連散手の存在によって我が門の太極拳は練習体系もまた、そのまま太極図に則ったかのような形でバランスよく学んでいけるように工夫されているのを、あらためて感じるわけである。

…と、いうようなことを思考の遊びのような感じでつらつらと考えていたりするので、タイトルは「我が門の太極拳」とかではなく、あくまで「太極拳雑感」なのである。

ちなみに余談であるが、自分がいろいろと書いてきたものを読んでうすうす感じていらっしゃるかもしれないが、我が門には呼吸法や気功などと言うものはほとんど出てこない。(笑)
なぜなら人間は呼吸しなければ生きられないわけで、自然呼吸をしているという事が即ち太極拳と一体となっている事である。つまり、太極拳自体が呼吸法であり気功的な要素を含んでいるのだから、分ける必要もなければ、ことさらに強調する必要もない。必要なのはむしろ、太極拳に対する理解の深さだ。

いずれその辺の事についても書こうとは思っていたのだが、切り口にはやや悩むところである。
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太極拳雑感(1)なぜ武術として教えるか?

明鏡拳舎では、なぜあくまで武術として太極拳を教えるのか?

例えば、一般の格闘技ではパンチは踵を浮かせて思いっきり蹴りだすようにしながら腰の回転で打つのに対して「太極拳ではなぜ踵をつけたままで打つのか?」というような素朴な疑問。

そんな素朴な疑問には、そうすることによってどういう威力が生まれるかということを、寸勁などを食らってもらって実際に体感してもらうのが手っ取り早い。
と、このように書くと乱暴な話のようだが、実際には、相手に合わせて身体は吹っ飛んでも痛みは与えないよう、威力や効果をコントロールするのだからかなり繊細な話だ。

体感してもらうのは、あくまで理解のため・学びのためであるし、勁力を使って打った打撃はどんなに軽いものであろうと相手が納得するだけの現象が起こる。そこには何のごまかしもないし、ほとんどの人は体感した後に笑顔になるか、不思議そうな表情になるかのどちらかだ。

踵を浮かさず、なおかつ、足裏で蹴らない意味、打撃の性質の違い等々、たった一つを実感するだけでむしろ沢山の事を学べるのだから、百の説明をする必要もないのである。と言うよりも、踵をつけたまま打つような要求は、一般的なスポーツ等の認識とは違うのだから、教わる側にとって必要なのは、まず、説明よりも証明だろう。

かと言って、出来ることをひけらかすのでもなく、示威行為でもなく。
我々の太極拳はそういうものだからこそ淡々とそのように教えるというだけで、しかし、そういうものだからこそ愉しいのだ。

愉しいからこそ、笑顔もあれば、学びの真剣さも増す。

少林寺拳法の開祖である宗道臣先生は、嵩山少林寺の白衣殿にある壁画に、中国人の僧と、印度人の僧が二人一組になって楽しそうに技をかけあう姿が描かれているのを見て大いに悟るところがあったという。

ところで、二人一組と言えば、我が門の太極拳には一人で套路を練るだけではなく、二人(時に二人以上)で行う多種多様な推手もあれば、99勢全ての用法を繋げた連散手というものが存在する。

それによって、我が門の太極拳がどういうものかより見えてくるわけだが、そんなわけで、次回のタイトルは

太極拳雑感(2)
「我が門の太極拳と、太極図」

ということで、再びマニアックな話になる。(笑)

ブログの意義

先週の土日はブログを始めてから初の愛知県での教室だったわけたが、その後の食事をしながらの座学では、明鏡拳舎でただ一人の正式な学生からのたくさんの質問が待っていた。(笑)
9本分のブログの記事の内容について、質問をあらかじめまとめてあったのだそうだ。
その一つ一つについて、詳細に具体的な技術の話も交えながら、説明と解説を加えていく。なんとも言えぬこころ愉しい時間である。
我が門の武術についてなんの気兼ねもせずに、存分に内容を語ることが出来ること、またそうやって伝えるべき人間がいるということは幸せな事だ。ブログで書けることは限られているし、武術はやはり人から人へと伝えていくものだ。明鏡拳舎としてのブログを書くのも、一つには自分の成長の為、一つには生徒の学びの為でもあり、それを外しては意味がない。

ところで、愛知県の教室では毎回感想のメールをいただく。別に強制ではないし、その時々で書きたい方だけが送ってくれるもので大体いつも10通前後になるのだが、それに対して一人一人に返信を書いて感想と共にまとめたものを、みんなで会報メールとして共有するということを、最初の第一回から今まで5年近く続けてきた。
きっかけは、初回の教室が終わって東京に戻ると、数日後にまとめ役であり現在の学生でもあるHさんが、皆さんからの感想部分を転送してくれたことだった。せっかくいただいた感想だからと思い、Hさんに全員への返信をまとめて送ると、毎回それが繰り返されるというを重ねていくうちに、自然と形が出来上がっていた。そこには、交通費を割り勘で出してもらっている分を何らかの形で報いたいということや、月に一回の教室では説明しきれなかったり、個人個人を見る時間が少ない分を補うために、また、他の人へのアドバイスを読んで、それを各自が活かせるようにという思いが込められて、徐々にその役割は大きくなってきた。そして、月に二回のペースになった今もそれは続いている。
そんなわけで、先週、教室があったので、今週はずっとその返信を書いている。5年近くも続けていると、皆さんからいただく感想の内容も随分と変わってきたのを感じる。もちろん、それに対する自分の返信も、かなり詳細なところまで書くようになっている。
今ではその蓄積が自分と生徒との交流の歴史であり、成長の記録でもある。

そういった状況でブログを始めたのは、「内功武術 明鏡拳舎」を開門したこともあり、ホームページ替わりに、自分の経験を通して構築してきたものをまとめる場としてブログを作るのも面白いだろうと思いたったわけである。
これも、ずっと返信という形を通して、自分の武術を言葉にし続けたからこそ、逆に書こうと思い立つ事が出来たのかもしれない。
ブログならば、武術に対する自分の考えを素直に発信することも出来る。
そして今回のように、それを通して生徒や学生と充実した座学の時間が持てることは、ブログ自体がそのまま「内功武術 明鏡拳舎」であればこそだ。

師祖父の武術

師祖父の武術をある程度使えるようになって思うのは、これはいわゆる格闘技の技術ではないな、ということだ。かと言って昔の戦場の技術そのままでもない。言ってみれば、ボディーガードや[金票]局といった者の技術だ。

例えば双辺太極拳の粘勁はどのように使われるか?または何のために必要か?といえば、相手を封じる為というのが一番分かり易い。では何のためにわざわざ相手を封じる必要性があるか、それはいかなる状況であろうかと思考を辿っていけば、我々の技術は、相手が突き蹴りで来ようと、暗器で襲いかかってこようと、初手から二~三手のうちには相手に貼りついて動きを封じてしまうものであると。それも相手を絡め捕るように詰将棋的に取り押さえてしまうか、動きを止めるように順々に相手の身体を壊していくように構成されているものだというところに辿り着く。
一般的な武道や格闘技とされるものが、試合のルールに合わせて形を変えていったり、もしくはルールの中で発展してきたのとは違って、ある意味、現代格闘技に対する研究はされつつも、1900年代後半という時代背景の中で育った技術がそのままの状態で受け継がれたのが我が門の武術だと言えるだろう。

そもそもがどういう技術か?ということについて「自ら知る」ということ。
それが、散打試合を経験したり、特に最近では義龍会主催の大会でST散打等で色々と技を実際に使ってみることを通して見えてきた。
自分の武術がどういうもので、どういう特徴を持ったものかがわかれば、試合においてはどうカスタマイズして、何を試すべきかも自ずと見えてくる。ST散打で技王賞やベストディフェンス賞という結果を得たのも、それはある意味、後からついてきたものだろう。
その結果はもちろん嬉しいものだが、それ以上に嬉しいのは、技がどんどん自分のものになっていく感覚や、理解が深まっていくことこそが、自分にとってはなによりだ。

ところで、自分は師祖父にはお会いしたことがない。なので師祖父とは伝えられた技を通して会話をするのみであるが、こんなにも研究・整理されているのは、普通の民間人にはやはりありえない内容であると思うというのが正直なところだ。

だが一方で、以前にも「護身の意味において、力がなく、また相手を傷つけるのが出来ないような心の持ち主が、咄嗟の緊急事態にいかに身を守るか?という難問に、師祖父が導き出した答えが込められているように自分には思えるのだ。よく護身術とは言うが、それで相手を攻撃出来る心の強さを持っているものは良い。しかし、本当に護身が必要なのはそうではない人達ではなかろうか?」と書いたように、師祖父の哲学や、弱者の味方に立つ視点を随所に感じることもまた事実だ。
だからこそ、明鏡拳舎には老若男女を問わず、また才能や体格の有無を問わずに、武術として真摯に学んでいる人達が集っている。
これが師祖父の「侠」の姿なのではなかろうか。

師祖父とは是非一度お会いして、いろいろ技について語り合ってみたいとも思うが、それが果たして叶うかどうかはわからない。

だが、自分の武術修行記を書いてあらためて思うのは、お会いする事が叶うにしろ叶わないにしろ、そこには必ず意味があるという事だ。

武術修行記 ~合気道編~(4)

◆合気修行の成果

指を取りに行って、掴んだと思った瞬間に、正座のまま一回転した自分。

それは、この二週間にかけていただいた全ての合気とはおよそかけ離れたものだった。だがそれは、秘伝があってやり方の違いという感じのものではない。自分が感じたものを一言で言うなら、技の「純度」の違いであった。砂泊先生の合氣は澄み切っていた。

何とも言えない気持ちに包まれる中、なんと砂泊先生は今の技の原理について手を取ってその軌道を教えてくださったのだが、投げる原理としては関節技の応用だという理屈はわかるものの、それ以前に「合気」が自分にはわからない。
どうしたらいいのかと思っていると、砂泊先生にもそれが伝わったのか、技をかえて合気の基本の感覚を自分の手を取って導くように教えてくださった。

取られた手から力を流して相手に入り込むという事。いくつかの形をとる中で力が身体の内部をどう流れていくのかがわかった。そしてその逆も順々に導いてくださった。

不思議な感じがするが、砂泊先生の合気は相手の最も力の出るところから、逆にそれを辿っていくように入り込んでいく。砂泊先生の合気の手は巻き込むような通称「猫手」が有名だが、普通の合気道のように開いた形は「陽」、巻き込むような形は「陰」なのだと、手を取りながら合気の感覚と共に説明してくださった。
砂泊先生は大本教の繋がりで植芝翁の弟子になった方だったからこその説明ではあったが、こういった発想も今になってみれば内功武術の陰陽の考え方と非常に重なるものだ。

それで「合気が分かった」とはおこがましくて言えないし、その時の合気の感覚がどの段階に位置するかはわからないが、とにかく自分の中で一気に何かが得られたのは間違いなかった。事実、今まで出来なかったことが出来るようになっていたし、自分の中に明確な一つの感覚があった。

その日の夕食は、再び砂泊先生のお宅に招かれて、奥様の手料理をご馳走になった。そして食事が終わり、教えていただいたお礼を述べると、砂泊先生はすっと立ち上がり本を2冊出してこられた。ご自身の著作である「合気道の心を求めて」と「続 合気道の心を求めて」だった。そして筆と墨を用意すると、一冊一冊に自分の名前と砂泊先生の名前とを書き添えてくださった。それが「武術修行記 ~少林寺拳法編~(3)」に予告として乗せた写真だ。それを自分に贈ってくださったのだった。

今こうして思い起こしても、感謝してもしきれない、素晴らしい経験をさせていただいた。

道場に戻ると、そこで寝泊まりするのはこの日が最後だと思ったが、感慨にふける間もなくすぐに眠ってしまった。
そして…翌朝の稽古に参加して、熊本でのすべての合気道修行を終えたのだった。

途中、岡山で一泊しながら、二日かけて東京に戻ってきたのだが、電車の中で何度も何度も、習ってきた技と、最後の最後につかんだ合気の感覚を噛み締めていた。

合気の感覚が身体に入ったことで、少林寺拳法の技が変わっていったことは言うまでもない。また、練習に対する考え方も変わっていた。理論と同時に感覚も大事にするようになった。
松田先生の「これぞ少林寺拳法」と言う体系的な考え方や身体の使い方によって技が変わっていったのに加わって、合気の感覚を得たことでさらに技が変わっていった。分かり易いところでは突きの威力が、その二つの過程を経るたびに段階的に上がっていったのである。

そして大学四年の秋。教育実習で実家の会津に戻っている最中に大東流合気柔術が武田惣角先生のご出身である会津坂下に残っていることを知り、まさかの展開が待っていたわけだが、武術修行記はこの辺で一旦終了しようと思う。

自分が習った大東流合氣柔術もまた本当に素晴らしい武術で、惣角先生の解釈の入った小野派一刀流と共に学ぶスタイルは、中学生の頃に剣道をやっていたことも含めて、ここに全てが繋がったとすら感じた武術であった。しかし、その後のまさかの展開によって、東京でその先生の大東流合氣柔術を続けられることになったことも縁なら、途中で仕事の関係等でどうしても継続できなくなり、中国武術の世界に入って師父と出会う事となったのも縁だろう。

自己紹介と、ここまで自分を成長させていただいたそれぞれの武道・武術に感謝の想いも込めて書き始めた武術修行記ではあったが、やはり自分の門を構えながら他派の武術をいろいろと語るのは、失礼なことでもあったかもしれない。

そんなわけで、武術修行記の~大東流合氣柔術編~以降をどうするかは今のところ未定だが、ブログにおいては再び「内功武術 明鏡拳舎」について語っていきたいと思う。

(武術修行記 第一部 完)

武術修行記 ~合気道編~(3)

◆合気とは?の答え

早朝。合気修行は朝6時から手取神社の境内を掃除するところから始まる。こんなところがいかにも修行っぽい(笑)。しかも、道場の畳の上で朝、目を覚ますのは、なんとも気が引き締まる気分だ。

練習は砂泊先生流の受け身を覚えるところから始まった。それも前回りではなく後ろ回り受け身から始めるのだが、なぜそれから始めるのかという考え方や、練習段階の方法が面白い。
後ろ受け身が出来たところで、通常の練習に参加させてもらえるようになるが、少林寺拳法の受け身の経験があるので、最初は戸惑ったもののコツはすぐに掴めた。これは良い後ろ受け身だなと思った。

いよいよ、合気の技の練習がはじまったが…これまたなにもかも戸惑ってしまう。そもそも力を抜くというのがわからないし、その状態で「ここで合気をかけて~」と、感覚的な練習がひたすら続くわけである。
たまに関節技が出てきてそれは少林寺拳法とも通ずるとことがあるが、合気道では少林寺拳法のようにガッチリかけあう事はなく、むしろ、相手の関節を伸ばして代謝をよくしてあげるのだという気持ちで、流れや感覚を重視した練習スタイルだった。今でこそ、その練習方法の良さとポイントがわかるものの、当時はなにか勝手が違う感じだったのだ。
道場の人は皆親切で、練習後もいろいろ教えてくれた。しかし、それでもやっぱり、力を抜くという事がわからなくて、同じく道場に寝泊まりしていた浜田先生に「やっぱり力を抜くという事がわからない」という質問をしたりもした。その時、浜田先生は人差し指をスッと出して、掌で押してみるようにと言われて、そのように押してみたがやはりビクともしなかった。

浜田先生に言われた言葉で一つ心に残っている言葉がある。それは「技は才能ではなく、誠実さでおこなうのだ」という言葉だった。

道場の人たちも皆、こういう練習を何年も積み重ねてその技があるのだ。いくら集中してやろうと一週間やそこらで、どれほどのものが身につくだろう。
今でこそ内功武術を教え、意識や感覚という事を当たり前のように語ってはいるが、「感覚」ということについて徹底的に悩んだ、この時の経験があるから今の自分があるのだと思う。

悩みながらもなんとか練習についていっていたものの、本当にただの体験で終わってしまうかに思えた時…自分が帰る前日の日曜日がちょうど各地から有段者が集まって練習する有段者会になっていたのだが、浜田先生からそれに参加しても良いという事、そして、砂泊先生がその有段者会で教えられるとのお話を伺ったのであった。

有段者会当日。まずは砂泊先生が有段者たちに一人一人次々に技をかけていく。その日おこなっていたのは、指取りで相手に指を掴まれたところを投げるという技だった。一通りかけ終えると先生の合図で、各自分かれて練習を行う。
自分はそれを見学していたわけだが、砂泊先生は、各々練習するのにまかせてこちらに歩いてくるのが見えた。そして、目の前に正座で座ると、有段者たちがそうしていたように先生の指を取って極めてみるように仰った。何が起こるのかと思いながら、言われたとおり指を掴んだ瞬間…、

「!?」

世界が上下逆になっていた。
自分が正座のまま、頭が畳の上スレスレに浮いた状態なっているのがその短い時間の中でわかった。

そして次の瞬間にはバターンと勢いよく一回転して畳の上に投げられた衝撃!

「…これが合気か!」

30年間、力を抜く事をひたすら追究し、貫いてきた技がそこにあった。

本当に「柔の極致」とも言えるような、まさに目が覚めるような技であった。

次回に続く。

武術修行記 ~合気道編~(2)

◆砂泊先生

自分が惹かれたのは、同じ一流の先生でも例えば「剛の合気」を感じさせる塩田剛三先生の合気ではなく砂泊先生の「柔の合気」だった。

「技が効かないという事はいかに惨めか、気持ちがどん底まで落ちた状態です。それが私の一つの貴重な経験なのです。」

と語り、

「和合とはどういうことか、それには力を抜く以外にないのです。体力で相手にぶつかっては駄目なのです。そういうものを私は毎日頭の中に入れ、その心の世界を技の面で表してきました」

と仰る砂泊先生の技はいかなるものだろう?

そんな砂泊先生の技なら「本当の柔の極致は大東流だけだよ。」という佐川先生の元弟子の方の言葉もわかるのではないかと思った。もちろん、そう思うくらいなら佐川先生に直接習いに行けばよかったのだろうが、その時は佐川先生の事は良くわからなかったし、元弟子の方にも会ったのは後にも先にもその時だけだったので、その時にその発想はなかった。後に、佐川先生は国分寺のあたりで教えていて「習うにはまず手紙を手紙を出して、それを読んで気に入ってもらえた人だけ教えてもらえるらしい」という話はどこかで聞いた。ただ、そこで仮に佐川先生に習えていたら、もしかしたら明鏡拳舎はなかったかもしれないと思うと、これも縁だと思う。

熊本に着くと、路面電車に乗って手取神社(手取天満宮)へと向かう。その隣に砂泊先生の道場はあった。迎えてくださったのは内弟子の浜田先生だった。当時、砂泊先生は足を患っており、練習は浜田先生が取り仕切っていた。挨拶の後、浜田先生が連れて行ってくださったのは砂泊先生のご自宅で、素朴な美しさをもった品のある奥様と共に砂泊先生が迎えてくれた。家も貸家とのことで質素なたたずまいであったが、そんな中、砂泊先生は自分がわざわざ東京から訪ねてきてくれたということで大変に喜んでくださって、夕飯もご一緒させていただいた。
名もないただの一介の学生をこんな風に迎えてくださることに感激しつつ、奥様の手料理を味わいながら、普段自分が技について疑問に思っていることや、先生の技がどういうものなのかという質問をいくつかさせていただいた。そんな中、スッと砂泊先生が腕を差し出した。そして「押してみてください」という。

「いよいよ、合気とはどういうものか経験することが出来るのだ。」
そんな思いが、瞬間、頭をよぎった。

胸がドキドキするのを抑えながら、先生の手首を握って押そうとした…が、先生の腕を掴んだ途端に、なぜか全く力が入る気がしない。それでもしっかり先生の手首をぎゅっと握って思いっきり押してみようとするのだが、砂泊先生は全く力を入れている様子がないのに、腕も身体もびくともしないのだ。不思議がる自分に、これが力を抜くという事だと、相手と結ぶという事なのだ教えてくれた。
確かにそれだけでもすごいと思ったが、投げられたりしたわけでも、なにか技をかけられたりしたわけでもないので、本当の砂泊先生の合気の凄さを知るのは、まだ先のことだった。

そして、砂泊先生は足の関係でまだ稽古を見ることは出来ないが、もし、浜田先生について練習に参加してみたいのならば、参加しても良いとのお許しをいただいたところでその日はそれで終わった。
適当なビジネスホテルにでも泊まろうと思っていたところ、砂泊先生が浜田先生を通して泊まるところも手配してくださって、何から何までありがたくお世話になってしまったのであるが、この日は熊本まで来たという興奮と、砂泊先生にお会いできた興奮とに包まれながら眠りについたのであった。

次の日。午前中に浜田先生が迎えに来てくださって、今後どうするかの詳しい話し合いをおこない、2週間ほど稽古に参加させてもらう事にした。練習は、早朝、午前中、夕方の三回。各一時間ずつ。道場に寝泊まりしても良いという事だったので、そのようにお願いして、いよいよ合気道の修行が始まったのである。

次回へ続く。

武術修行記 ~合気道編~(1)

◆合気とは?

合気とは?また、合気道とはいかなる武道なのか?
佐川先生の元弟子の方から話を聞いた後、大東流やそれをもとに作られた合気道に興味関心が募っていく。そういえば、その方はこんなことも仰っていた。
「少林寺拳法か。少林寺拳法も良い技だね。だけど本当の柔の極致は大東流だけだよ。例えば太極拳も柔とは言うけど実際には剛が混じっているが、大東流は柔だけだ。」

今更ながら、自分のやっていた少林寺拳法とはどのようなものであったか?
よく誤解されがちだが、日本の「少林寺拳法」は中国の「少林拳」とは全く違うもので、開祖である宗道臣先生が中国で学んだ技を元に、柔道や空手、ボクシング、相撲その他を研究し再編されたものだ。その技は「守主攻従」という少林寺拳法の特徴にあるように、相手の攻撃をいろんなパターンに分類し、それに対して、受け・捌き等で守り、すかさず突き蹴りや投げによる反撃を行うというもので、非常に分かり易いものである。例えば、手を掴まれたら鉤手手法で守りながら当身、その後関節技で投げる、と言った風である。

少林寺拳法は基本的に、投げや関節技を主体とする「柔法」、突き蹴りを主体とする「剛法」、身体の調整や点穴を主体とする「整法」の三つから構成されている。また、分かり易いという言葉に象徴されるように考え方はシンプルで、かつ理論的に技を説明するスタンスをとっている。柔法では関節技の分類化や柔道で言うところの八方崩しから投げへのプロセス等の解説。突き蹴りでは相手の攻撃を受け流したり、ヒットポイントを外す捌きの技術…等々。

特に蹴り等を腕で受けた時に、角度処理で衝撃をまともに喰らわない技術などは秀逸で、これはつまりどういう事かというと、蹴りを手や足で防御したとしても、それで腕や足を痛めては意味がないのである。単純にヒットポイントを外して威力をなくすではなく、受けた時にどうやってその衝撃を殺すか?その考え方を学べたのは大きく、太極拳の拗歩倒レン猴でミドル~ローキックを捌くのが自分の得意技なのも、この理合のお陰のところもある。というのは技にレンジの広がりを持たせることが出来るからで、レンジが広がれば、それだけタイミングや応用も広がる。ちなみに、拗歩倒レン猴は双辺太極拳にしかない技で、八卦掌との融合の仕方も絶妙な均整のとれた美しい技だ。

やや話は逸れたが、少林寺拳法が理論的であったからこそ、合気と言う存在が余計に気になっていたのかもしれない。もちろん、その時代は中国拳法漫画の「拳児」が流行りはじめていたころだったので、その内容から漂ってくる中国拳法や大東流などの古武術の考え方や動きに、新鮮な魅力を感じていたという事もあるだろう。

大学三年も終わる頃、一通の手紙を書いた。
少林寺拳法では毎年・春休みには、以前書いたように大学合宿と言うものがあり、四国は香川県の多度津町に行く。そこから砂泊先生の教えていらっしゃる熊本へと考えて、砂泊先生にあてた手紙であった。手紙には先生の技や言葉に感動したこと、そして一度技を見学させていただきたいという旨が記してあった。腕を取らせていただけるかもわからない。ただ見て、一日で帰ってくることになるかもしれない。待つこと数日…。先生から返信が届いた。筆で丁寧にしたためられた手紙。返事はOKだった。

大学合宿が終わると、皆と岡山で別れて一人熊本へと向かった。青春18きっぷで、普通電車を乗り換えての旅だ。

合気とは?また、合気道とはいかなる武道なのか?
漫画「拳児」にあった佐川先生の「透明な力」のようなものなのだろうか?

ただ一つ。直観で感じていたことは、合気は一流の先生の技を受けないとわからないだろうという事だった。

次回へ続く。

武術修行記 ~少林寺拳法編~(3)

一回先延ばしになってしまったが、松田欣一郎先生のお話。
あらためて振り返ってみると、この経験が自分にとって非常に大きかったのがわかる。

◆唯一、正しい少林寺拳法!?

少林寺拳法は単独組織としては最大規模の武道団体だ。また、現在の技のほとんどは開祖・宗道臣先生の弟子達によって組織的に体系化されたもので、開祖は一人一人に個人教授の形で技をかけ、それを周りで見ていた人達が「今のはこんな風にかけていた」などと話し合いながら技をまとめていったという話が残っている。そういった背景もあって、少林寺拳法はある意味、絶対と言うものがなく、例えば同じ一つの技でも「先生によって説明や、やり方が違っていても、それは各自の工夫と経験によるものでどれも正しい」というスタンスをはっきりと打ち出している。実際に「逆小手」という技一つとっても、教える先生によって様々だったが、むろん、そういった現象だけで言えば少林寺拳法に限ったことではないだろう。

ところが、自分にとっては「これこそまさに教科書的な少林寺拳法といえるのではないか?」と思うほど、理路整然と、誰もが納得するような形で技をまとめ上げていた先生がいた。それが松田欣一郎先生だ。「あらはん」という少林寺拳法の昔の機関誌で技術Q&Aのコーナーを担当されていたこともあり、もとはウェイトリフティングの選手だっただけに、理論がしっかりしていて、それでいて本に載せられた松田先生の回答は非常に分かり易かった。上手くかからなくて悩んでいた技も、とりあえず文章通りに行えばなぜか技がかかる、そのくらい要点を押さえるのも上手な先生だった。

松田先生のまとめ方を自分なりに解釈するならば、松田先生の技は少林寺拳法の礼法であり構えでもある合掌礼を全ての基本としたものだ。「合掌礼」の形は同時に「合掌構え」でもあり、技の中に出てくることはないが教範にもしっかり構えとして明記されている。一般的な構えとなる開足中段構えや一字構え、待機構え、等々の構えは合掌礼が基本で繋がっており、それも観念的なものとしてではなく具体的な人体の構造や、筋肉での力の発揮の仕方などといった視点からそれを捉えていた。説明の一つ一つがシンプルで理解しやすく、技も効果的で無駄がない。鉤手手法など、少林寺拳法において重要な技法も、全てそこに繋がっていた。

習った時間はほんのわずかの時間でしかなかったが、その考え方で他の技も組み立てていけば、いろんな技が変わっていくのが直観的にわかった。当然その後は、技と共に技の威力もまた見違えてあがっていった。その頃から、技と言うものはどういうものであるのか?ということを、深く考え始めるようになっていたと思う。というより、技に対して漠然と感じていたものが、その経験によって少しずつ見えるようになってきた。それくらい、技が変わったのだった。

今更ながら、この松田先生に習った経験がなかったら、三拳弊習の我が門の武術体系を、今のように自分の考えでもって取り組むことが出来たかどうかはわからない。

少林寺拳法ではもちろん他にも素晴らしいと思う先生はたくさんいる。坂東先生の圧法や整法、中国武術式に言うなら点穴の技術は見事だったし、あんなに軽い打撃で簡単に人は気絶してしまうものなのかとも思った。ただ、このブログにあげた先生方はいずれも他界されており、自分自身、少林寺拳法から離れて20年近くになる。
少林寺拳法には武道専門学校と言うのがあって、月に一回の講習会を受けながら11年かけて卒業する形式があり、大学在学中から社会人になって最初の一年目くらいまで(間に油絵科に研究生として一年間大学に残っていた期間も含む)通っていたこともあるくらい、少林寺拳法に励んでいた時期もあった。

しかし、途中で砂泊先生の合気道に出会い、大学四年生の時には教育実習で会津若松に戻っている間に、武田惣角先生のいた会津坂下町に大東流合氣柔術がしずかに受け継がれていたことを知って大東流に触れてからは、やはり道が分かれていったように思う。もっとも、その大東流もまた、時間や場所の関係で離れざるをえなくなり、途中紆余曲折を経てこの武術に行き着くわけだが。

ということで、少林寺拳法編はここまでで終わり、次回は合気道編となる。
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今回はちょっとした予告画像を。(笑)

武術修行記 ~少林寺拳法編~(2)

武術修行記も、いざ書き始めるといろんなことを思い出すものである。少林寺拳法編とは言っても、今回は合気道との関わりが主となる。

◆合気の足音

大学二年から三年にかけての春休みの事。
工事現場で警備のアルバイトをやっていたのだが、ある日、休み時間に武術関係の本を読んでいたら「おっ、君は武術をやっているのか」と突然声をかけられた。声の主は清掃の仕事で入っているオジサンで、自分が「はい、少林寺拳法を」と答えるとそこから話は弾み、その方は大東流合気柔術・佐川先生の元弟子ということがわかった。もっとも、その時は漫画「拳児」に出てくる佐上先生のモデルが佐川先生とは知らず、ただ名前を知るのみだけだったので、ただそうなのかと思っただけであった。その方に技をかけてもらう事はなかったが、「写真で良い先生の形を見るだけでも、勉強になるよ」とアドバイスをいただいたのが心に残った。それから、本の活用の仕方が変わっていったように思う。

◆転機

転機となったのは、大学三年の時。その年は、少林寺拳法の国際大会が本部のある香川県多度津町で、講習会形式で開かれることになった年であった。それが何の関係があるかというと、その手伝いのスタッフとして美大の拳法部の中から何人か参加することになり、その中に自分も入っていたのである。打ち合わせから当日の準備等働く代わりに、講習会にも参加させてもらうことが出来た。もちろん、それも良い思い出ではあったが、直接の転機になったのは東京センターの資料を自由に閲覧させていただけた事にある。
当時はビデオも非常に高く、それだけいろんな武道の資料が揃って自由にみられるという事はまずありえないことだったが、それによって佐川先生の元弟子の方にいただいたアドバイスが存分に活きたのである。

自分は福島県の会津が出身だっただけに、「拳児」の中に出てきた大東流には特別に興味をひかれていたこともあって、合気道関係のビデオを見ることが多かった。むろん、某流派の大東流のビデオもあったのだが、それはどちらかというと正直期待外れで、自分が一番に心惹かれたのは「1985年 第一回友好演武会」の万生館合氣道・砂泊[言咸]秀先生の技であった。合気ニュースから出版されている「植芝盛平と合気道」の中にある砂泊先生の言葉はとても率直で、技に対する考え方も非常に興味深いものであった。

ちなみに自分が見たビデオはこちら。


また、書籍「植芝盛平と合気道」から砂泊先生の言葉を一部、以下に紹介させていただく。

「私の場合、長いこと先生についていなくても、自分の非力と言うものを熊本に来て体験しました。反発するものや素直に稽古しないのがたくさんいますよ。何百人といるのですから。技をかける前に力ずくで頑張るのですから、もうきまらない。こちらが技をかけようとするとパッと止めてしまうのです。そういうものに対しては、単なるきめ技ではきまらないです。そういう他流試合みたいなものを私は経ているのです。技が効かないという事はいかに惨めか、気持ちがどん底まで落ちた状態です。それが私の一つの貴重な経験なのです。それを克服する為にはどうしたらよいかということになった時、先生の精神的なものを目標にする以外にない(中略)和合とはどういうことか、それには力を抜く以外にないのです。体力で相手にぶつかっては駄目なのです。そういうものを私は毎日頭の中に入れ、その心の世界を技の面で表してきましたし、それが稽古の中にも表れたのです。」(185ページ)

言葉だけでは精神論的な印象を受けるかもしれないが、映像を見てから読んだ自分にはますます興味を掻き立てられ、有名な高段者の先生の映像が収められている中、自分が習ってみたいのは砂泊先生の技だと思ったのだった。

とはいえ、この頃は少林寺拳法に夢中であったことも事実で、山の手道院の松田欣一郎に教えていただく機会があったのもそういった時期であった。

ということで、ここまででも長くなってしまったので松田先生のお話は次回に。
プロフィール

Author:宇野 道夫
「内功武術 明鏡拳舎」を主宰。
陳[シ半]嶺(Chen Pan Ling)の流れをくむ
太極拳・形意拳・八卦掌
の三拳を修めている。
縁あって愛知県の江南市。神奈川県の相模原市で後継者の育成にあたっている。

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