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ある日の練習の後に

心から「この門の武術で良かった」と思う瞬間がある。昨日の拝師弟子練習はまさにそのような時間であった。

拝師弟子練習は、基本的にマンツーマンで教わる事がほとんどだ。それを師父と何年にも渡って続けてきた。

今では、話の内容も、練習の内容も、毎度の事ながら本当に濃密で味わい深いものだが、不思議と教わることに「尽きる」ということがない。

三拳弊習だから覚える事も多いということもあるが、だからと言って、ただ単に3つの拳法の套路をどんどん覚えていく、というのともおよそ訳が違う。
進んで行くにしたがって三拳が密接に繋がりあい、スパイラルに高さと深みが増していく感じなのだ。

しかし、今回の感動とも感謝ともつかぬ気持ちが湧き上がるのは、そういった技術的な話によってではない。もっと根本的なこの門の武術についての話だ。

套路の中に感じる師祖父の人生哲学のようなものについては、以前にも話題にした事があるが、今回の学びによって、武術がこんなにも昇華された形でなお、武術として受け継がれてきていることに深い感銘を受けたというところであろう。そう、これこそが師祖父の武術だったのだ!

だからこそ、ここまで誇りを持って迷わずに教えることが出来た。そしてこれからは、師祖父と師父に連なる自分の武術を、より決意と心を込めて伝えていかなければならない。

今日の内容を、いつの日か、自分の後に続く者に。

そんな想いが心の中に渦巻くような、感慨深い一日であった。
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連散手

愛知県の教室「宇童会」は、実に女性が8~9割を占める。しかも、度々記述しているが、元々が武術どころか太極拳にすら縁遠い方がほとんどだったのだ。

なので用法的な練習については、満四年を過ぎるまで連散手はおろか、たまに技の意味として用法を紹介するか、ちょっと体験してみるという程度であった。

およそテレビなどでの太極拳のイメージしか知らない人にとっては、太極拳に対人稽古というものがあることに戸惑いを覚える方も多く、推手ですら亀の歩みの如くであった。段階を細かく分けてそれぞれの目的や意味を教えつつ、簡単な攻防の意味なども少しずつ交えながら、じっくりじっくりと、しかしあくまでも武術、もしくは武術に繋がるものとしての気持ちは忘れずに練ってきたのだった。

本当に、初めたばかりの頃は、まずは相手と向かい合う緊張感をなくしていく、そんなようなことから慣らしていく感じだったと思う。

それがようやく、ここにきて連散手を本格的に始められるようになってきた。特筆すべきは攻撃側を習っても、愉しめる余裕が出てきたことだろう。

また、今まで練ってきた太極拳が、連散手を学ぶことによって、急に活き活きとしたものに思えてきたようだ。これまでに説明してきた細かい注意点の意味に、あらためて一つ一つ納得するように、套路の雰囲気が変わっていく。技を知ることによって、根節、中節、梢節の意識が変わり、全体の流れもよりイメージし易くなるのだろう。
站椿の意味、推手の意味、それらが急に実感として感じられる瞬間だ。

もちろん、ここに至るには様々な工夫もしてきた。

それによって明鏡拳舎のルールとして定着したことの一つが、連散手・攻撃側は、あくまで「先生」役という位置づけを明確にしたことだ。

先生役である攻撃側は、生徒が攻撃に対して太極拳を正しく使えるよう導くために、正確にゆっくりと攻撃を行わなければならない。

ゆっくりというと、そんな攻撃を受けても意味がないと思うかもしれないが、ゆっくりでもまずは「太極拳を使ってみる」「太極拳で攻撃を捌く」という経験をしてみなければ、始まらない。

仮に、相手の速い突きを太極拳の動作の形で受けられたとしても、そこに太極拳ならではの勁や感覚や意識がこもっていなければ意味がないのである。それが沾粘連随の「沾」だ。

一方で攻撃側はいわゆる、少林拳や現代格闘技のように突き蹴りが主体の攻撃を行う。

これも自分の場合はついでに形意拳等の理合いも少々加味しつつ、極力、単独で行える型に落とし込んで動きを練習した後に、ようやく連散手として組み合わせるというやり方にしている。

ある意味、皆にとってはこうしたキビキビした動きもたまには新鮮に感じるようだ。もちろん、そのように感じられるような下地は作ってきたつもりだ。そういう真っさらな気持ちで見ることが出来れば、攻撃側は乱暴なものでも、単なるやられ役でもなく、そこには実にたくさんの優れた技法や学びがある。

ところで、何故、攻撃側が先生役になるのかというと、そこにはもう一つ大事な意味がある。それは、あくまで根底には太極拳がなければならない、という事だ。

いわば最も太極拳の外形から外れたところで太極拳を行わなければならない。そして客観的な視点から太極拳を味わうということ。三層の功夫で言えば、明でなく暗。厳密に言えば暗への足掛かりとするものであり、それを学ぶのが攻撃側の目的でもあると言えるだろう。

そうした陰陽の関係によって、単に用法の詰め合わせ的なものだけでなく、システマチックに様々なことを学んでいけるのが連散手の素晴らしいところだ。そして、こうしたものを通して学んでいくのも三拳弊習の我が門の太極拳なのだ。

「我が門の武術は、我が門の練習によって成り立つ。」また、「我が門の武術に必要なのは真摯に学ぶ気持ちだけである。」何度でも繰り返し心に刻みたい言葉である。

我が門の武術は、強い人には教えるが、弱い人にはやっても意味がないので教えない、というものではない。

強い弱いに拘らず、今、出来ることをする。そこに、共に良い学びが得られるものこそ武術だと思っている。

純度と雑味

わずか5年の間でも、基本を繰り返し・繰り返し教え続けていると、まず誰よりも先に自分自身にかなりの気付きがあるものだ。生徒に教えるということは、師父から習ったことを何度も思い起こしながら、どうしたら生徒にその意味と大切さを伝えることが出来るかと、いろんな角度から基本に対する思索を深めてきたようなものであるから、当然と言えば当然かもしれない。結局は、生徒を成長させるのも、自分自身を成長させるのも同じという事だ。

自分自身の理解が深まってくると、自然と教え方も変わってくるし、動きを導くために使う言葉まで変わってくる。一方で「上下相随」「虚実分明」「空胸緊背」等の常に繰り返し引用する言葉は、ますますその意味が深まってきた。それらによって生徒たちの技が一段と変わってきた手ごたえがあり、技や基本も、ある意味シンプルでより明確なものになってきた。
何もかも良い感じになってきた…と思っていたのだが、なかなかそう一筋縄ではいかないものである。

最近も弟子に言われてハッとなったことがあった。それは、自分が初期の頃に教えた、今の自分から見れば雑味が入りまくったある練習法を弟子が新しい生徒に教えていたのだが、わざわざそれを教えたわけを尋ねてみると、弟子にとってみればそのやり方が入り口として「分かり易くて、良かった」と言う。

例えるなら「水清ければ魚棲まず」と言ったところであろうか。
弟子のとった行動は、自分にも覚えがある。

いや、むしろ自分自身がその行動をよくとっていたし、それらの内容を誰よりも大切にしていたと思う。

我が門においては「工夫に力を入れれば(工力+夫)=功夫になる」という師祖父のウィットに富んだ言葉が残されているように、確かにその練習法は八卦掌など名前も聞いたことのないような生徒に、どのように八卦掌を教えていくか?ということを試行錯誤をしながら工夫した練習法ではあった。

それが今は八卦掌がどういう拳法であるかというイメージも皆の中に浸透して、本来あるべき練習法で進められるように教室の雰囲気が整ってからは、その言わば方便のような練習法は自然と消えていったのであるが、習い始めて間もない人には、ある意味、武術の性質から言って純度が高すぎると分かり辛く、逆に雑味が入っているほうが目指したいところが逆に目立つという良さがある、と言ったところだろう。

思い起こせば、今の宇童会を教え始めた時に、なにより役に立ったと感じるのはその雑味の部分であった。それを知っているか知っていないかは、師父の初期からの生徒と後から入った生徒との大きな違いであるとも思っていた。

それがいざ、自分のこととなるとつい純度を高める方に目が行きがちで、意外とそういうところは見おとしがちになってしまうものだ。しかも、なまじ純度が高くなることで成果があがっている分、教える側として未熟だった頃の自分が考えたものなど、つい「もう必要ない」とさえ思ってしまう。

しかし、そういうわけでもないというのは、その時期だからこそ感じ取れるものがあり、その時期ならでは発想出来ることもあるということだろう。

純度と雑味。

その絶妙なバランスを愉しめるようになりたいものである。
プロフィール

Author:宇野 道夫
「内功武術 明鏡拳舎」を主宰。
陳[シ半]嶺(Chen Pan Ling)の流れをくむ
太極拳・形意拳・八卦掌
の三拳を修めている。
縁あって愛知県の江南市。神奈川県の相模原市で後継者の育成にあたっている。

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