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最近の気づきと、守破離

しばらく前から形意拳の技のかかりが変わってきているのを感じていたが、最近になって、これもまた八卦掌と太極拳が形意拳の中で陰陽のように融合した一つの現れ方・成果なのだということに気づいた。
それも枝葉の話ではなく、起鑚落劈という形意拳の根の部分での話で、しかも、八卦掌と太極拳の特徴もまた存分に活かされているのが面白い。技の可能性も広がっていくだろうし、その観点でもう一度五行拳から見直すのも良い。また一段、五行拳も深まって戦略の幅も増えそうだ。

しこうして、その気づきとは、捻りの方向とその変化がもたらす現象についての話なので、それだけを取り出してみれば決して特別なものではない。
しかし、捻りが何にどう繋がって、どのような展開を見せるのか。それが技術体系だ。ただ「捻り」と言っても、太極拳、八卦掌、形意拳で、その意味も目的も異なれば、質も異なる。
が、異なるからこそ、それが上手く組み合わさった時には意外な効果をもたらすものだ。

以前、三拳弊習について書いたときには、形意拳の中にこんな太極拳と八卦掌の融合があるとは気づいていなかった。これだから三拳弊習は面白い。不思議なもので、三拳の特徴を際立たせるべく分けようとすればする程、その先でますます密接に結びついていく感覚がある。

きっと何年後かには…いや、三拳弊習についてはこれからも何度となく、その段階での三拳を語る事になるだろう。

もっとも、このように書くとある人はこう思うかもしれない。「このブログを書いている人物は自分の考えを書いているだけで、三拳について深く習ってはいないのか?」と。

そうではない。

深く教えていただいたからこそ、次々と色んな事をテーマに掘り下げてみようという発想が浮かんでくるし、自分が出来るようになって、初めて見えてくるものもある。何より、こうした気づきや発想と練習の繰り返しによって自身の理解と技を深めていくことこそは、そもそもの武術の醍醐味ではなかろうか。

日本の伝統芸能には守破離(しゅはり)の考え方がある。

守破離は元は
「守り尽くして、破るとも、離るるとも『本』ぞ忘るな」
の守破離をとった言葉だそうだ。

守り尽くしてとは、自分で言うのもなんだが、我ながらまさにその通りだと思う。師父から教わった事を大事に守り通し、実践してきた。だから、今があるのだ。

だが、そこから先の破と離については、ネットで改めて解説を読んでいると、どうにもしっくり来る説明が見つからない。

破は、他流も研究するとか、セオリーから外れてみると説明しているものもあれば、離は、型から自由になり、型から離れて自在になることができる、というような内容である。

だが、それでは何のための型であろうか?と思ってしまうのである。型はその流派の理合いであり、そこから外れてしまったら、破ではなく単なる技の破綻だ。

どんなにセオリーから外れようとしても、人間の身体の構造は変わらないし、あらゆる物理法則から解放される事はない。その中で動かなければならないし、それを使いこなす為の理合いこそが型のはずである。

では、自分にとってしっくりくる守破離とはなんだろうと思い考えてみると、浮かんできたのは「三層の功夫」だ。

明、暗、化。この3つの段階の考え方こそ守破離に当てはまるのではないだろうか。

【守ー明】
・明らかに目に見える形で、一つ一つしっかりと教えを守っていく段階である。それによって理合いを学んでいく。

【破ー暗】
・理合を一通り学んだ上で、自身と向き合い、個人差による微妙なズレを擦り合わせていく時期であり、様々な気づきや工夫を成功・失敗を通して試行錯誤する時期とも言える。それは一見、形が崩れているように映ったり、勝手な事をやっているようにも映るが、自身と型の統合や、技の発展があるのがこの時期と言えるだろう。
型から外れているように見えても、あくまでその人が見つめているのは基本であり、型なのである。

その一方で、実際に使ってみようとして上手くいかない経験を多く積むのもこの頃だろう。しかしその原因というと、ほとんどは力に頼ってしまったり、普段練習していることと違う事をやってしまったという感じではなかろうか。上手くいかないからといって型を捨てるのではなく、他に求めるのでもなく、まず破るべきは、自分の中にあるあらゆる固定概念である。

【離ー化】
・どんなに自由に振舞っても、型(理合)から外れる事がないくらいに、経験の積み重ねによって、型が身体にも脳にも染み込んだ状態である。また、理合いが身体に染み込んでいるからこそ、自在にも動けるわけだ。
また、そこまでに至る自身の様々な工夫や経験を伝えようと思えば、必ずや基本の中にその考えもまた反映されていくだろう。なぜこの基本が大切なのか、基本で何を学ぶべきなのか、と。もちろん、それは套路にも言える。

こうして書いてみると、あらためて感じるのは、

自分が教える太極拳とは、
師父が教えてくれた太極拳でありながら、
師父の太極拳ではなく自分の太極拳であり、
ではその自分の太極拳はと言えば、
自分の太極拳などというものはなく、
ただ「太極拳」なのである。

ということだ。八卦掌や形意拳も然り。
守破離の元になっている言葉にある最後の言葉。「『本』ぞ忘るな」とはそういう事でないかと、自分なりに考える次第である。
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プロフィール

Author:宇野 道夫
「内功武術 明鏡拳舎」を主宰。
陳[シ半]嶺(Chen Pan Ling)の流れをくむ
太極拳・形意拳・八卦掌
の三拳を修めている。
縁あって愛知県の江南市。神奈川県の相模原市で後継者の育成にあたっている。

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